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2010年5月22日 (土)

OMS戯曲賞「山の声 ある登山者の追想」

 OMSというのは、扇町ミュージアムスクエアのことだ。大阪梅田の程近く、扇町公園の隣にあり、ここのフォーラムというスペースは、関西の小劇場のメッカであった。大阪ガスの施設であった。当時は劇団☆新幹線や南河内万歳一座の稽古場があり、情報誌『ぴあ』の編集部もここにあった。調べてみると1985年から2003年まで続いている。

 初めてここに立ったのが19歳のとき、1986年であった。もっと前からあったように思っていたが、してみると、劇場ができた翌年にはもうここにいたのである。10周年の記念イベントにも参加させてもらった。僕が4回やったプロデュース公演のうちの3本目『戦国太陽傳』をやったのもここで、1995年のことである。最後に立ったのが、1996年、伊藤えん魔ひきいる劇団「ファントマ」の旗揚げ公演で、この劇団は現在も活動を続けている。

 戯曲賞は、1994年に始まった関西在住または関西を活動の場とする劇作家による戯曲の賞である。関西にはその昔、テアトロ・イン・キャビン戯曲賞や、小さなところではスペースゼロ戯曲賞などというものもあった。いずれも小劇場を対象とした賞である。

 OMSは閉鎖されたが、戯曲賞は大阪ガスの主催によって現在でも続いており、劇作家の登竜門としての地位を確立している。

 話がそれた。今年で16回目を迎えるOMS戯曲賞に大竹野正典さんの『山の声 -ある登山者の追想』が対象作品として選ばれた。大竹野さんは僕のひと世代上の作家で、犬の事ム所、くじら企画と劇団を率いられた方だが、僕は直接は知らない。受賞前に不慮の事故で亡くなられた。

 『山の声』は、昭和初期に活躍した単独行者、加藤文太郎を描いた二人芝居である。

 先日、僕の山の盟友(?。10歳も上のひとなので失礼か)である中村圭志さんと話していて、そのことが話題になった。

 回りくどい話になるが、僕がYKのいたころ、OMSで行われていたサロン「扇町talkin’about」に呼んでもらい、そこで山納洋さんと出会った。彼は大阪ガスのひとだが、OMSのプロデューサーであった。また、戯曲賞にも深く絡んでいる。失礼ながら僕は芝居作りはしていたが制作面は他人まかせであったので、初対面だった。山納さんは僕のことをよくご存知であった。

 その彼が、「山カフェ・プロジェクト」なるものを立ち上げるというので、その会合の場に中村圭志を誘って、以来、彼らは一緒に何かを仕掛けることも多くなったのである。

 そんな縁もあり、そこにOMS戯曲賞に加藤文太郎を題材にした作品が選ばれたのだから、中村圭志としてはどうもほうっておけなかったらしい。

 で、この戯曲賞と、作品の再演をなんとか盛り上げたいという事もあって、僕と山納氏を再びつなげようと思ったようだ。さっそく山納氏が脚本を送ってくれた。

 前置きが長くなった。短い作品なので、すぐに読めてしまった。感想であるが、僕は加藤文太郎の遺稿集『単独行』も、彼を題材とした新田次郎の小説『孤高の人』も読んでいるので、二人芝居という時点で、吉田登美久との槍ヶ岳北鎌尾根の最後の遭難に関する話であることはわかっていたのであるが、演出方法がまったく思い浮かばなかった。

 つまり、役者の動きや台詞回しなどを想像して読むことができなかった。ビジュアルが見えてこなかったのである。『単独行』からの抜粋が多いためもあるが、僕の中での加藤文太郎像が無口なものだから、闊達に吉田とやり取りをする加藤についていけなかったせいもある。

 芝居作りは現場での生のやり取りがあるから、作劇法によっては、大いに成立するし、作家はおそらく『単独行』や『孤高の人』も相当に読み込んでいるから、加藤の像は僕とそう大きな隔たりはないはずだ。

 芝居は加藤と吉田の掛け合いで成立している。吉田は雪山の中で朦朧とした加藤の幻影であったことが最後に知れる。要は、加藤の自問自答であると解釈すれば、確かに闊達な会話があってもよい。

 多分、芝居を見ればそれで解決することかもしれないが、それでは戯曲を読む面白さがない。

 何度か読んでみないことには、なかなか読みこなせない、難しい戯曲であった。

 再演は1月に東京で行われる。

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